最近思うこと
(前置き)
私の書く文章は、取り留めが無く決して美しくない。
起承転結という規則が好きではない。
ただ、そのルールが読みやすいことは知っている。パズルのように文を配置する能力が無いだけなのに、自由という安直な言葉に逃げているのだと思う。
という言い訳。
…自分はあまり頭が良い方ではない。頭の回転の速さの割に理解力が低い。というかそもそも頭の回転が速い訳ではない。贔屓目に見て普通の類だろう。でも思い込みは強いし、思い込むための回路は他の神経と違って常に高速回転である。
ちょっと待て
その思い込み
危険思想
(本題)
生まれてこのかた、何となく自分はこのまま漫然と生きて一人で死ぬだろうというのは感じていたが、明確になったのは三年前からだ。自分の人生はやはり上手くいかないものなのだとはっきりと感じた時からである。今までは騙し騙し撫で付けていた。良い人生になるように努力して舵を取り、毎日の予定で忘れようとしていた。
それはそうと、私の知能指数は「平均よりほんのちょっとだけ上」らしいのだが、「知識」における数値がそれを引っ張り上げただけだ。結晶性知能の代表格であろう知識が高くても、頭が良い訳ではなくただの頭でっかちな物知りのレベルである。
母方の血筋は、かなりの読書好きだ(勉強家ではないので大した本は読まない)。本を読まない人間がいたら、我が家の血を引いていないと言われる始末である。母に関しては、本の虫そのもので、どこに行っても本を読んでいるし、本を読めなくなったら殺してくれと頼まれている。
姉は母には劣るが、壁一面は全て本棚で、本棚に入らない本が何本ものタワーになって埃を被っている。
私もやはり同じ血を持っていて、図書室の貸出カードは学年どころか校内一位の枚数だったし(授業中に読んでいた…)、毎日本屋に寄って一冊立ち読みして帰っていた。家庭の不和も手伝って、本の世界に逃避していた感もある。本と漫画によって生活が破綻し、又、支えられてもいた。
それが三年前から全く本を読まなくなった。読めなくなった。興味が無くなった。何にもない。力がないのだ。
それにつれてボケたのかと思うほど言葉が思い出せなくなった。言葉を使う仕事もあるので、かなり困っている。今のところは何となく類語辞典で使いたい言葉に近い単語を当てはめているのだが、記事を書いている時は本当に集中しないと簡単な言葉さえ出てこない。
併せて漢字が書けなくなった。
頭は悪かったが、漢字や語彙にはかなりの自信を持っていたし、どれだけ学力が無くても唯一教師に褒められる部分であった。
なのに、今は大体の言葉を調べないと本当に正しいのか分からない。
知能は生まれて死ぬまで数値が大体決まってるという。
本当だろうか?
サードオピニオン先でもう一度知能検査を受けるだろうが、三年前より「知識」は低くなる筈だ。…今から戦々恐々としている。
虚しい毎日を過ごしていても、鬱病とは診断されていない。
とにかく、冬に向けて長い秋が始まったのだと思う。
(本題・続)
さて、思う存分乱れる論旨であるが、気ままに書き散らす。
近頃思うのは、やはり自分は「発達障害」があるのかも知れないということだ。
病(障害)名で括るのは間違いだという指摘があるが、それこそ私が発達障害者だと診断された所以、つまり拘りによるものということなので放っておかれたし。
先日、発達障害に拘る私に、父がNHKの発達障害特番を見ろと勧めてきた。そういう類の番組に触れてこなかったが、折角なので視聴してみた。
突っ込みどころしか無かった。
何で?何で?何で?
どうしてこうだと言っているのに、別の時は違うの?
いちいち引っ掛かるのは、いちいち説明してくれないからである。聞き流せない。頭の中で、きっとこうなんだな、と補填できないので納得出来ない。
自分で分かっておきながら止まらない。
人に対しても、
今のはどういう意味だったのか?
何故その言葉を使ったのか?
私が感じた印象と、人が使おうとした意味合いは果たして同じなのか?
それをしつこく確認する。一度箍が外れたら止まらない。
拘りが酷いと主治医に言われているが、もしかしたら言葉への拘りが少し異常なのかも知れないと自分でも感じる今日この頃。
逆に、言葉に拘らない人がおかしいのではないか?と思う自分もいる。
……言葉を思い出せもしないのに。
本当に参ってしまう。
このままじゃ、本当に「発達障害者」だ…。
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嫌悪感を持たれた方に関しては、多様性の重要さを私よりもご存知だと思いますのでどうぞ軽くスルーしてやって下さい。